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JリーグのFC東京を応援しているBlogです

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先週の5/13(木)に文京シビックホールで行われた、川淵三郎氏の講演「夢があるから強くなれる」に行ってきました。そこで聞いた話が面白かったので、1時間とロスタイム5分(笑)の講演でしたがノートにして約6ページくらいメモったのをまとめてみました。ざっと流れを整理しながら書いてみたんですが、その面白さが少しでも伝われば幸いです。

(1)2002年W杯開催立候補を表明した当時の状況

【FIFA】
現時点で208の国と地域が加盟(国連加盟国よりも多い)
独立したことをアピールするためには、対外試合は格好の舞台だから、たくさんの地域が加盟している。

1986年メキシコW杯(マラドーナの神の手ゴールがあった)
FIFAアベランジェ会長(当時)が21世紀はアジアでと発言。大の日本びいきで知られる氏の発言は、次は暗に日本でW杯をと言っていると誰もが思ったが、日本の現状を考えれば日本国内では誰もピンと来なかった。

では当時(1986年)の日本の状況はどうであったのか。

1.5万人が収容出来るサッカー専用スタジアム→0
4万人以上が収容出来るスタジアム →2(国立・神戸ユニバー)

1950年代
大学中心のサッカー(大学やそのOBが天皇杯で優勢だった)
1960年代~
企業スポーツ
広告媒体・求心力・福利厚生の一環として、年間2~10億の予算があった。

1965年
JSL(日本サッカーリーグ)がスタート
※日本サッカー界の恩師、クラマー氏の提言
8チームでスタートし、90年当時には1部12チーム、2部16チーム

W杯出場など夢のまた夢で、オリンピック出場が目標。しかし1968年メキシコ五輪で銅メダルを獲得して以来、オリンピックで全く勝てなかった(マレーシア・シンガポールらにすら勝てない弱小国だった)

1990年当時JSLの状況
平均観客動員数は3,000人。
最終的に27年間での累計観客動員数970万人、年平均で36万人。

【TV放送】
JSLは優勝のかかった年2-3試合のみの放送
視聴率が取れないということでお金を払うと持ちかけてもTV局に断られた。
※人気の高校選手権・天皇杯はTV放送されていた。
全てを合わせたサッカー関係の放映権料は年約500万円。

【新聞】
主要紙→結果のみの掲載
スポーツ紙→ほとんど掲載されていない状態

当時のJSLには海外から戻ってきたカズや、ラモス・木村和司・水沼といった選手はいたが、見るべき選手は10人くらいだった。
※グッズの売上は大売れに売れた日で2万円くらい。

それなりに安定してはいるものの、ここからさらに日本のサッカーを強化していくためには、「欧州のような地域に根ざしたスポーツクラブ」を作っていくことが必要だ。→どうすればいいのか?

1990年当時
「3万人収容のホームスタジアム」「独立法人化」「30人前後のプロ」「ユース(下部組織)」「TV放映権」「広告収入」などのプロ化を成功させるための要素は何も揃っていなかった。

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1960年代の集中強化による銅メダル→世代交代により衰退
そんな中でサッカー競技人口を増やすための転機となった2つの要素

1.1970年にサッカーが体育の正課に取り入れられた。
  →それまでは教師が提案してたまにやるくらいだった。

2.1981年「キャプテン翼」少年ジャンプに連載開始
  →サッカー人気の爆発 ※中田英寿、稲本、中村俊輔といった世代

上記の理由によりサッカーの競技人口自体は増えていた。
しかしプロリーグを成功させるためにステップバイステップでは難しい
→あえて高いハードルを設定して超えられたチームで始めよう
(元々たいしたことないんだから、失敗したら元に戻せばいいじゃないかという開き直り)

・法人化した自立したクラブ経営を目指す→企業大反発
・ホームタウン化
・1.5万人収容のナイター施設付きの競技場(「保有」でなく「確保すること」とした)
 →ナイターのカクテル光線・芝生でなら何かが起こるだろうという期待感
  競技場を走り回っている子供を隠せるといった現実的な視点もあり
・18人以上のプロ
・下部組織

など7つの要素を条件に兼ね備えたチームを募集
1990年4月→バブル経済の最後の時期

20チームの申し込み→14チームに絞り込み
→10チームのうち8チームはすんなり決まった

残りの候補
・清水
→当初チームに連れてくると公言していたカズ・武田の移籍には失敗
 しかし堀池・大榎・長谷川の三羽烏などの熱意を感じて加盟が決定

・ヤマハ(現磐田)→中山がいたがホームスタジアムで失格
・ヤンマー(現C大阪)→神戸・大阪とホームスタジアムで迷い失格
・日立(現柏)→勝田(茨城)をホームにする予定だったが、ホームスタジアムで失格
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残り2候補
・フジタ(現湘南)
→条件を満たしてはいたが、当時ヴェルディ・横浜M・横浜Fが決定していたため、神奈川に4チームが集中することはできれば避けたい

・住友金属(現鹿島)
当時の鹿島町の人口は3.5万人で、3,000人のスタジアムを予定していた。
川淵氏は厳しいと感じ「99.99%ない」と、訪問してきた関係者に伝えた
→「100%ではないんですね?」と、「1.5万人収容の屋根付きスタジアム」「観客動員」「施設」「補強」といった次々と氏が出した課題を、県とも協力しつつ1つ1つ解決し、鹿島の逆転加盟が決定した。

1993.5.16のジーコのいる鹿島と、リネカーのいる名古屋の対決
・初戦は満員だったが招待券がほとんどで、応援団はほんの一角だった
・2戦目→即完売。往復はがきで申し込みを募集していたが、茨城県で通常使用する30万枚がそのためになくなってしまったため、方法を変えた
・何もなかった鹿島町への住金社員の転勤は歓迎されるようになり、暴走族がいなくなったことで警察の転勤も嫌がられなくなった。

これまで運用のノウハウがなかった鹿島ボランティアの行動規範
1.客に不快感を与えない。
2.その行動がアントラーズのマイナスにならない
3.自覚を持って行動する。
→成功して、全体の規範に


Jリーグのマーチャダイジング(グッズ販売)
・1991年当時のアメリカ4大スポーツのグッズ売上は各3,000億円くらい
・有名な「J」のロゴマークは1,000万円でデザイン
 →もったいないと思ったが、あのロゴマークを作ったことは大きかった
・NFLの日本でのグッズ販売実績が40億円だったので、初年度の目標が45億
・フタをあけてみれば、初年度300億円の売上があった(次年度からは下がったが)。

Jブームの一例
・NTTのテレホンカード→700万枚の売上
・森永のチョコレートバー→12億円の売上
・永谷園のJリーグカレー→1200万食の売上
※食うとラモスになる有名なCMで「ラモスにならない」と苦情の電話が殺到したとか
・各チームのフラッグ→1000本売れればいいと思っていたが、300万本売れた

バブルが弾ける前にJリーグをスタートさせることができたのは大きかった
・加盟の条件を下げないで済んだ
・企業名をチームにいれるという妥協をしなくて済んだ
・あのタイミングでなかったら、Jリーグ自体が存在しなかったかもしれない。


当時の状況からどう変わったのか

1.5万人以上収容のサッカースタジアム→20
4万人以上収容の屋根付きスタジアム→12
※屋根のない国立・神戸ユニバー・広島ビックアーチを加えた15が4万人以上

新潟ビックスワン
「サッカー不毛の地」と言われた新潟が、J2で66.7万人の観客動員を記録。
アベランジェ前会長は被爆した広島に思い入れがあって開催を希望しており、それを背景に開催地に立候補していた広島市長(当時)が誘致にあたって100万以上掛かる「屋根は付けない」と公言。そのため新たな候補地としてビックスワンが作られた経緯があり、それがなければ新潟の今の状況はなかったかもしれない。そういう意味では氏は広島市長に今でも感謝している(笑)

Jリーグの観客動員970万人(高校サッカーや天皇杯を加えると1,000万人を超える)
スカパーの放映権料 Jリーグ52億円(今後は少し下がる)+代表の10~20億円くらい

苦しい状況もあったが、ようやくここまで来た。



(2)川淵氏から見た代表の印象

1.1998年フランスW杯代表(中田が21歳)
中田は確かに生意気ではあったが、先見性があった。
その中田を中山・秋田・井原・名波・山口といった選手が支え、盛り上げていた。
岡田監督の下、3連敗こそしたものの良いチームだった

優勝するチームの力を15とすると日本代表は6+チームワーク1で7くらいの力


2.2002年日韓W杯代表(中田が25歳)
トルシエという言葉には今でも苦いものが混じらざるをえない(笑)
徹底的に押さえ込んでチームを掌握しようとした。
トルシエはメディアの露出が多かった中田・川口がとにかく嫌い。
中村落選を和らげるために、ベテランの中山・秋田を招集した。
→結果的にこの2人がチームを盛り上げてくれた。
チームは「アンチトルシエ」で結束→ゴールしても誰もトルシエのところに行かない
初ゴールの鈴木隆行→中山のところ ロシア戦の稲本→秋田のところ

このチームの力は7+ホームアドバンテージ2で9くらいの力があった


3.2006年ドイツW杯代表(中田が29歳)
チーム構成的にピークとなるべき代表だった。
国内組+中村俊輔で臨んだ中国アジア杯でのチームワークは素晴らしかった。
しかしジーコとイタリア語で話せる中田ら海外組が戻ってきてから、ポジションを約束されている海外組と国内組の間が少しずつギクシャクし始めた。
それでも初戦で勝てればチームも結束しただろうが、オーストラリア戦で決壊してしまった。
ジーコは人間的には素晴らしいが、人心掌握という面では必ずしも上手くなかった。

このチームは8くらいあったが、チームの和を欠いて-0.5、7.5くらいの力だった。


4.2010年南アフリカW杯代表
現時点でのチーム力は8くらい、奇跡を起こすためにはそれに+αが必要。

キーマンとなるのは本田
北京五輪の頃は何であんなのが選ばれているんだと思った。
しかし海外に移籍して2年で激変した。
海外に行ったことで天井効果がなくなったことが、大きかったのではないか。

天井効果(ceiling effect)
→環境で天井が限定されてしまうとそれ以上伸びない

もう一人長谷部
正直海外で成功するとは思っていなかった(ここで私は見る目がないと告白)
球離れ、動きの質、何より倒れない気持ちの強さがいい。
中田が「倒れるのは恥」と言っていたが、今はコロコロ倒れる選手が多過ぎる。
こういう「倒れない強さ」をもっともっと意識しないといけない。

思うに謙虚な日本人らしい選手が海外で成功するのが難しいのではないか。
折れない気持ちの強さを持った、自我の強いくらいの選手の方がいいかもしれない。
本田は凍てつくロシアの厳しいピッチでも転んでアピールするような気持ちは微塵もない。

キーマンの本田を中村・遠藤といった選手が認め、支えていけるかがカギ。
守備のしっかりできる長谷部も重要なのではないか。
アトランタ五輪は95%くらい圧倒されていたが、勝った。
もちろん簡単な相手ではないが、信じて応援する気持ちも大事。

選手にはもっと欧州に挑戦して、自分の限界を試して欲しい。
30人くらいが欧州に挑戦して20人くらいがレギュラーという状況を作り出すことができれば、日本代表ももっともっと可能性を高めていくことが可能ではないか。


【この講演を聞いての個人的な雑感】
あちこちで講演している内容なのか、数字もスラスラ出てきて、川淵氏の話は上手かったですし、興味深くもあり、面白かった講演でした。講演を聞いて自分が生まれる前のこと、幼くて記憶にないことでもこれから日本のサッカーを応援していく上で、共有していった方がいい歴史の積み重ねというものがありますし、Jリーグ開幕前の積み重ね、そしてJリーグの積み重ねがあったからこそ、今があるのも確かです。そう思ったからこそ今回、少しでもそういう部分を感じてもらえればと思い、このエントリを書いた次第です。

川淵氏は監督決定のプロセスなど、他の角度から言及されるべき一面が多々あったのは確かですが、あのタイミングで国内でも懐疑的な声のあったW杯開催国に立候補し、Jリーグを立ち上げる、プロチームを立ち上げると決断して、あの基準を作っていかなかったら今のJリーグはなかったでしょうし、今の代表の躍進もおそらくなかったわけで、川淵氏のみの功績ではなかったとしても、ある一面のみを取り上げて評価するのではなく、それはそれとしてもう少し客観的な評価がなされてもいいのでは、というのは感じたところです。

また目標(とされる)「ベスト4」という数字ばかりが一人歩きして、どうしても代表に関する悲観的な意見ばかりが先行してしまいがちですが、結果が最終的にどうなるのかはともかくとして、サッカーファンが悲観的だったり、ネガティブな意見ばかり述べていたら、日本国内が盛り上がるわけがありません。日本代表も、日本代表をサポートするスタッフたちも今できることを頑張っています。サッカーファンだからこそ、今のチームを信じて応援しようと盛り上げていくことも必要ではないでしょうか。

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2010.05.16 21:23 | Jリーグ | トラックバック(0) | コメント(2) |

熟読させて頂きました&とても参考になりました。近年は浦和や新潟が注目されてきたようですが、鹿島こそがJ創世期の(そして現在に至るまでの)最大の成功例という事実を再認識しました…あと何回か読み返します(笑)。隆盛を経験したサッカー協会が、これから予想される厳しい時代を如何にして乗り越えるのか、内外的両視点で見守っていきたいと考えました。

2010.05.16 21:30 URL | NERIMA FRENCH BULLDOG #JyN/eAqk [ 編集 ]

川淵三郎さんは文武両道ですごいです。
名門三国丘高校卒で、2浪の苦労を経て、早稲田大合格のかたわら、日本代表として東京オリンピック参加。その後は、日本サッカー協会会長など、本当にすごいです。努力で、道を切り開いたというのはこういうことを言うんですね。

選手引退後の人生では学歴はたしかに重要になってくるかもしれませんね。
文武両道でがんばることが大事ということですね。

文武両道といえば、慶応の理工4年福谷選手がドラフト1位で指名されましたね。文武両道ですごいですね。がんばってほしいです

サっカー界には文武両道で有名な東大卒Jリーガー久木田さんや他にも岡田武史さん、宮本恒靖さん、橋本英郎さんが文武両道で有名です。、ゴルフ界といえば、坂田信弘さんくらいしか思い浮かびません。


しかし、大学ゴルフ界に文武両道プロゴルファーになる卵がいます。
東大法学部4年の高野隆

彼は朝日杯争奪日本学生ゴルフ選手権には4回出場し、6位に入った。他にも、日本学生ゴルフ選手権3回出場、日本アマ出場、トップクラスで活躍するスーパースターです。

九州大2年の永井貴之

彼は九州ジュニアゴルフ選手権4位、国体選手にも選ばれた。日本学生ゴルフ選手権出場、文部科学大臣杯争奪全日本大学・高等学校ゴルフ対抗戦出場など、全国大会の常連です。

和歌山県立医科大学医学部医学科1年の辻田晴也

彼は関西高等学校ゴルフ選手権2位、全国高等学校ゴルフ選手権に3回出場など全国大会の常連で、関西学生秋季新人戦2位、西日本医科総合体育大会2位、関西学生秋季新人戦2位です。

他のスポーツ界に負けず、文武両道3羽ガラスが将来プロゴルフ界で活躍すればなぁーと思います。

2012.12.19 18:28 URL | 文武両道 #- [ 編集 ]












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